【舞姫の写真】
「あなたは、撮れませんよ」
店先で中の様子を窺っていた猫に、店主は微笑みかけた。
真っ黒の大きな瞳で店主を見上げた猫が、にゃあ、と一声鳴いて行儀よく前足を揃えて座ると、店主は手にしていた皿をその前に置いた。
頭を突っ込んで皿の水を啜る猫には、青いリボンで鈴が結わえてある。喉を撫でると、チリチリと小さな音を立てた。
「ここの猫ですか」
すっと視界に影ができたので店主がしゃがんだまま顔を上げると、そこには山高帽の紳士が立っていた。
「いいえ」
店主はそう答えながら立ち上がる。
「彼は、うちの大事なお客さまです。もっとも、写真は撮りませんが」
紳士はふふ、と笑って灰色の山高を取ると、
「ひとつ、お願いしたい」
銀縁眼鏡の奥で微笑みながら、言った。
店の中で、古い籐椅子に座った緋羅紗のドレスの少女が、無言で紳士を出迎えた。
「彼女もお客ですかな」
「メムワール・シュクレです」
「“memoire sucre”?」
「彼女の名前です」
「仏蘭西語がお出来ですか」
「かじるばかりで」
紳士は微笑みながら、膝の上に置いた山高を抱くようにして、少女を見つめている。
「あなたを撮るのですか」
「いいや」
店主の問いに、出された茶を口に運びながら、紳士は首を振った。
「彼女を」
そう言って紳士は、懐から一枚の写真を取り出しでテエブルに置いた。
「お美しい」
「ジヌディーヌです。三十年前に、巴里で、彼女に恋をしました。彼女は舞姫でした」
写真を見ながら、紳士は懐かしそうに目を細める。
「魂を撮ることのできる写真師がいると、噂を耳にしましてな。それで、ようやくここを見つけたのです」
そう語って、紳士はため息をついた。
眼鏡を外して、ハンケチで拭いながら無言になる紳士の眼が、重い寂寥感をまとっている。
「ここを見つけるのにも三十年かかった。まだやっていると知って嬉しくて……あなたは二代目か何かになるのですかな」
店主は黙って笑っている。
紳士の問いには答えずに、
「なぜ、彼女を撮るのです」
訊いた。
「私が帰国する少し前に、ジヌディーヌは死にました。馬車から落ちて、命の次に大事な脚を怪我したのです。彼女の悲しみに、私は何もしてやれなかった」
「気の毒に……」
「ジヌディーヌを、もう一度舞台に立たせてやりたいのです」
そこまで話して、紳士は眼鏡を顔に戻すと、再び膝の山高を抱きしめた。
「せっかくのお申し出ですが、私には受けられません」
店主は、写真を紳士の方へやると頭を下げた。
「なぜです。この写真に、彼女の魂はいませんか」
「いいえ、そうではありません」
店主はそう言うと、紳士の背後に目をやった。
「あなたは、また入ってきて」
紳士が振り返ると、店先にいた猫が入ってきていた。
店主は彼に近づくと、軽々と抱き上げて言った。
「少しでも動いてしまうと、写真には撮れないのです。彼は動いてしまうので、それで『大事なお客さまだけど写真は撮らない』と申し上げたのです」
「そんなことより」
「私が彼女を撮らないのは、撮れないからです。理由は、今お話しましたとおり」
合点のいかない顔をしている紳士に、店主は続ける。
「彼女は、踊るのが好きだったのですね」
「踊りを愛していました」
「あなたの中で、彼女は今でも踊っていますか」
そう言って微笑んだ店主の顔を見て、紳士はハッとした。
「あなたが彼女を心から愛したのなら、それがこの写真に与えられた真実です。彼女を愛したあなたの魂が真に存在していて、そうして彼女があなたの中でまだ踊り続けているのなら、彼女の踊りはまだ終わっていません」
店主は店の外に猫をおろすと、戻ってきて更にことばを続けた。
「写真は《真》実を《写》します。真実のあなたの中で彼女が踊り続けている限り、私は彼女を撮ることができないのです」
紳士はそれを聞くと、寂しげに笑って頷いた。
「三十年経ても、ジヌディーヌは踊っています。私は忘れられないのです……あの美しかったジヌディーヌの姿が。……女々しいと思わないで下さい。私は帰国して、日本の妻を得ました。子も授かりました。それでも、ジヌディーヌは私の美しい思い出なのです」
写真を懐に納めると、灰色の山高をかぶりステッキを持って、紳士は店を出た。
見送る店主に、急に思い立ったように
「“memoire sucre”は、あなたの思い出ですか」
紳士は尋ねた。
「いいえ。彼女もまた、人の愛の真実です」
店主はにっこり笑って答えた。
灰色の山高が雑踏に紛れて見えなくなる頃、店主の足元に、チリチリと小さな鈴の音が戻ってきていた。
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