【式部の幸せ】
風の冷たさに堪えかねるように、暖簾が震えていた。
「いらっしゃいませ」
花冷えの風とともに店内にやって来た少女に、店主はほほえみかける。
「一枚、撮っていただきたいの」
そう言って、葡萄茶色の袴をはいた少女は店内の椅子に腰かけながら、袂から薄桃色の封筒を取り出した。
花の絵の描かれた封筒を開くと、中からびっしりとやわらかい文字が並んだ便箋があらわれた。
「このお手紙を撮るのですか」
店主は尋ねる。
「ええ。お手紙と、あたくしと、一緒に撮ってちょうだい」
少女は俯いて答えた。
「このお手紙、あたくしの一等大事な宝物ですのよ。だから、このお手紙を宝物にしたまま、この世から消えてなくなってしまいたいの」
白い指先で便箋の端をもてあそびながら、少女は多弁になる。
「あたくしたち、姉妹でしたの。ご覧になって、『お姉さま』って書いてあるでしょう……賢くって、とっても可愛らしくって、……誰もがこの子を妹にしたがっていましたわ、もちろんあたくしも……だから幸せで幸せで、仕様がないくらい……」
少女は寂しげに笑って言った。
「あたくし、卒業は来年ですの。けど……急に、本当に急に、お父さまが死んでしまって……どうしても、来年までおられなくなってしまって……離れたくないわ。この子もそう言ってくれたわ。それで、こっそり二人で寄宿舎を抜け出したのがちょうど一週間前……」
チリン、と小さな鈴の音を立てて、老猫のユキが、店の奥でセルロイドの少女の膝に跳び上がった。
真っ白い毛皮がさざなみのような緋羅紗のドレスの上にまあるくおさまる。ユキとセルロイドの少女はじっ、と葡萄茶袴の少女を見つめていた。
「寄宿舎を出て、大森海岸まで行きました。きっと離れないと、二人で、髪のリボンで手首を結んで、……」
店主は黙って少女の話を聞いていた。
「あたくし、実家に帰ったら、結婚しなければいけませんの。お相手の殿方は帝大出のお若い方で、お写真を見たけれど、とってもすてきな方だったわ。きっとあたくし、幸せになれるって思いました。でも……どうなるかも分からない未来の幸せより、今の幸せをずっと、ずうっと、守っていたくって……」
老猫はいつしか消えて、店の奥ではゆたかな白髯を撫でつけながら、ユキ翁がセルロイドの少女を抱いて古い籐椅子に腰かけていた。
「あの子はひとりで逝ってしまいました。あたくしは、まだここでこうして、残念で仕様がありませんの。写真師さん、あたくしを撮ってちょうだい。早く……」
渇いた口唇を震わせながら、少女はまくし立てた。
店主はしばらく黙ったまま少女の目を見つめていたが、やがて細い目を更に細めて笑うと、
「お望みの通りにいたしましょう。……しかし、行き先の分からない未来の幸せは、そんなに不安なことなのでしょうか」
言った。
「怖いんです、怖いんです。……でも、もうあたくしには関わりのないことですわ。あたくしは、あたくしの不安のためにあの子を死なせてしまいました。それはとても辛い……けれど、あたくし、あの子との幸せはずうっと幸せのままで守っていけると思いますの」
店主は小さく頷いて、少女を奥の部屋へいざなった。
ふわり、となびいた髪が目の前を通りすぎたとき、ユキ翁は白髯に覆われた鼻を少しだけ動かした。
「こちらへ……」
店主が奥の扉を開ける。少女は晴れやかに笑ってユキ翁に「ごきげんよう」と挨拶をすると、店主と二人で扉の向こうに消えた。
「あれは、幸せな女なのかな。不幸な女だったのかな」
誰もいなくなった部屋で、ユキ翁はセルロイドの少女に問いかける。
少女は何も答えず、ただ、小さな花のようにほころんだ口元にかすかなほほえみを浮かべて、葡萄茶袴の少女の座っていた場所を見つめていた。
ややあって、奥の部屋から店主がひとり、薄桃色の封筒を抱いて出てきた。
ユキ翁は、籐椅子に腰かけたまま店主の顔を見上げる。
「あの女は、無事に旅立てたかの」
「お気づきでしたか」
「伊達に長生きはしとらんわい」
「これはこれは」
失礼しました、と店主はにっこりほほえんで、薄桃の封筒を懐にしまうと、少女の座っていた椅子に近づいた。
「あなたは、未来に幸せを見ますか」
「天が下、お天道さんさえ出づれば幸せじゃ」
「これはこれは」
店主は目を糸のように細めた。
「磯のにおいが、こんなに鼻に付いたのは初めてじゃわい」
「仏に失礼ですよ」
「神も仏も、俺には屁みたいなものじゃで」
葡萄茶袴の少女が座っていたところに、もう人のぬくもりはない。湿り気を含んだかすかな磯のにおいだけが、少女の座っていたことを寂しげに証明していた。
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