【書生の迷い】
「明日、僕がここを通ったら、必ず呼びとめて写真を撮って下さい」
暖簾を無造作にめくり上げて店の中を覗き込んだ書生が、大きな声で言った。
眠っていた真っ白の老猫が驚いて飛び上がる。忙しく首の鈴を振り回して、店の奥へ駆け込んでいった。それと入れ違いに、店主が奥から出てくる。
「いらっしゃいませ」
「旦那、よくよく頼みます。明日、僕が必ずこの店の前を通ります。そうしたらきっと呼びとめて、写真を撮って下さい。絶対に」
書生は一気にしゃべり終えると、肩で息をついて店主のすべすべした顔を見た。
「明日もこうしてお出でになるわけには、いかないのですか」
店主は書生のために椅子を引き、そうして自分の椅子を引いて、言った。
「それが、いかないんです。明日ここを通るのは僕でないんですよ」
書生は難しい顔を、腰にぶら下げた手拭でグイグイこすった。
「不思議なことがあるのですね。あなたが通ると言っているのに」
「確かに僕が通ります」
「でもあなたでない」
「僕も困っているところです」
腰に手拭を差し込みながら、書生は椅子に腰をおろした。
「僕はどうしても、明日ここを通る僕を殺してしまわなけりゃいけないんです」
店主に勧められるまま湯呑に手を伸ばす。喉を大きく上下させて一息に中身を流し込むと、
「旦那、あのね、僕の中にはとんでもない野郎が棲みついているんですよ。明日ここを通るのはそのとんでもない野郎なんです。あいつめ、あんまり放蕩が過ぎるんだが、しかし僕はあの野郎がどこで何をしているのか知らないんです。けど、周りの連中が言うんですよ。ヤレ昨日何処でデレていたの、ヤレ牛店で踏み倒したの、……でも僕は知らないんですよ。……だから旦那、人助けですよ。放蕩野郎を捕まえて、一枚やっちまってほしいんです」
店主はゆっくりと湯呑の縁を白い指でなぞりながら書生の演舌を聞いていたが、やがて湯呑をテエブルに置くと、にっかりとして書生の顔を見上げた。
青ざめた額に、神経質そうな血管が浮いている。その細かい脈を見つめながら、
「昨日、おかしなお客さまがいらっしゃって」
言った。
「『明日ここを通るから、きっと呼びとめて写真を撮れ』とおっしゃるのです」
「はあ」
「『あいつは神経質でいかんから、脳病が悪化しておかしくなってしまう前に死んだがいいに違いない』とも」
「あ、いけませんよ旦那。きっとそいつは僕だ」
「そうです」
「あの野郎、同じことを考えていやがったんですね。こいつはたまらん」
「さて、そこで私は悩んでいます」
悩んでいる、と言いながら、店主は相変わらずすべすべした頬に微笑を浮かべている。
「あなたの写真を撮るべきか、明日ここを通るあなたを撮るべきか」
「勘弁して下さい。今僕を撮ったら、僕が死んでしまうじゃありませんか」
「では、問題です」
「はあ」
書生はポカンと口を開けて店主の口元を見た。
「私は《真》を《写》すのが仕事です。しかしあなたには独立したふたつの《真》があるようです。もしどちらも真実あなたの中に存在しているあなたなのだとすれば、あなたという姿を撮った瞬間、もしかすると、一度にご両人を写してしまうかもしれません」
「え」
「慌てずともよろしい。一度お二人でご相談なさってはいかがですか」
書生はぼんやりと店を出た。その後ろ姿を見送る店主の背後から、
「あれは、昔はそんなに神経質な人間ではなかった」
ユキ翁が白髯をしわだらけの指でいじりながら呟いた。
「彼をご存知ですか」
「よう知っとるとも。悪戯に髭を切られたこともある」
「それはそれは」
「人間というのは、どうもいかん。物を考えるほどに莫迦になる。あれはチト考え過ぎじゃろうのう」
「なるほど」
「お天道さまさえ御座っしゃれば、物事なぞ考えるに足らずじゃ。人間さまにはそれが分からんようじゃね」
「………」
店主は黙って笑った。
ふたつの湯呑が、テエブルの上に影を伸ばし始めていた。
翌日、書生は自ら暖簾をあげた。
「旦那、やっぱり撮っておくれな」
「いらっしゃいませ」
書生は無造作に椅子を引くと、どっかりと腰かけた。
「どちらをお撮りしましょう」
「どっちでもいいんだ。どっちかがいなくなろうと、どっちもいなくなろうと、結局僕らは同じ恰好なんだもんね」
白い老猫が、奥の籐椅子に腰かけた少女の膝であくびをした。
店主は少女の髪を梳く手を止めて、書生の顔を見た。
「あなたがよろしいのならば」
「ウン、もし僕が消えっちまったら未練だから、昨夜はうんと牛肉を食ってきたところだ」
老猫が前足で捏ねるように顔を撫でる。
店主は櫛を懐にしまうと、
「それでは、撮りましょう」
書生を別の部屋へ案内した。
籐椅子に腰かけた少女と老猫は、黙って書生が奥の部屋へ入っていくのを見送った。
ある夕刻、店主はいつものように暖簾を片づけはじめる。「色即是空、空即是色」の白抜きが、夕陽で橙色に染まっている。と、
「旦那、旦那」
呼び止められて、店主は振り向いた。健やかに日焼けした若い男が、にこにこ笑って立っている。
「これはこれは」
「あれから断然決意するところがありましてね。上海へ発つことになりました」
「そうですか」
「明日横濱へ出て、それから船に乗ります。いろいろとお世話になったのでご挨拶に来ました」
「どうぞお気をつけて。……ときに、あの写真はご入用ではありませんか」
抱えていた暖簾を壁に立てかけると、店主は微笑んで、尋ねた。
「それなんです。あのときは断然決別のつもりで貰いませんでしたが、やっぱり記念にと」
男は照れくさそうに頭をかいた。
「お持ちしましょう。どうぞ」
店主に誘われて、男は店に入った。
テエブルの上に、老猫が座っている。
「旦那、こいつは旦那がずっと飼っているんですか」
「彼は友人です」
「猫の友人とは痛快ですね。お袋の飼ってた猫によく似てるんだが、あいつお袋が死んでから行方知れずで……相当なジイサン猫だったもんだから、もう死んじまっているかもなあ」
「さて、どうでしょう。どこかで尻尾が二又になっているやもしれませんよ」
「旦那が言うと、なんだか笑えませんぜ」
男はそう言いながら、口を大きくして快活に笑った。老猫はブシュンとくしゃみをしてテエブルを飛び降りた。
ややあって、
「どうぞ」
店主は一葉の写真を持ってきた。
それを見た男は、
「うわあ、こいつは……」
と言いかけて、しばし口を噤んだ。そして神妙な顔つきでじっ、と写真を眺めていたが、
「ありがとうございました」
テエブルに額をつけんばかりに頭を下げた。
「どうぞ、お元気で」
店主は微笑んだ。男は顔をあげると、恥ずかしそうに笑って、店を出る。
腰に古手拭を挟んだ書生が二人写った写真を懐に差し込んで、男は帰って行った。
「ワシはまた、髭を切られるかと思うたよ」
暗くなった店の中で、ユキ翁が呟いた。
「お前さんは二人とも撮って仕舞うたが、」
「ええ」
「では今のあれは、嘘の塊かな」
「さて」
店主はテエブルを拭きながら、答える。
「真実が迷いであるならば、迷いのなくなった彼は真実ではないかもしれませんが」
布巾をたたんで、店主はゆっくりと椅子に腰かけた。
「真実という迷いの形から解き放たれた彼は、形も迷いもない姿に還ったのかもしれません」
暗い店の片隅に、「色即是空、空即是色」の八字が、ぼんやりと垂れていた。
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