【人の名前】
「もう、満開ですか」
ユキ翁の肩に乗っている小さな花弁を見つけて、店主が言った。
「すっかり咲いてしまっておったよ」
ゆたかな白髯を撫でつけながら、ユキ翁が答える。
店の奥でセルロイドの少女を抱いていた店主は、彼女を古い籐椅子に預けると、ゆっくり暖簾を割って顔を外に出した。
ゆるやかであたたかな風が、ふうわりと街路を歩いていく。
「桜に会うたことが、あるかな」
今度は、ユキ翁が店主に問うた。
「あいにく」
店主は首を振る。
「あれは少々変わり者じゃで……お前さんとは馬が合うやもしれぬよ」
「桜さまは、なぜ《サクラ》というのでしょう」
ユキ翁のことばに笑いながら、ふと、店主は呟いた。
「いっぺんにたくさん咲きよるからかのう」
ユキ翁は首を捻りながら言う。
「名前とは、面白いものです」
「俺の名はユキじゃそうな」
「雪のように真っ白だから、とのことで」
「ウン、実に気軽なもんじゃろう。あまり気に入っとらんが、何故かしらん、ユキと呼ばれると、俺がことかと思って振り返ってしまうのう」
店主は笑った。
「名前とは、一種の呪いですよ」
「呪いかな」
「ユキという名前からは、逃れられないのでしょう」
「ウン、やっぱり俺はユキじゃな」
「生きとし生けるものを縛る何かがあるとすれば、名前以上にその力をもつものもそうないでしょう」
暖簾をのんびりと浮き上がらせて、風が店の中にやって来た。
ユキ翁の肩に乗っていた花弁が、ひいらり、と床に落ちていく。
「いらっしゃいませ」
店主は微笑む。
「お前さんは、風も写すのかい」
「風は友人です」
のどかな風は、少女の緋羅紗のスカートの襞を優しく撫でて、微かな笑みを含んだ口唇に口付けた。
「風は《カゼ》。桜は《サクラ》」
「そうして、お前さんは」
と問いかけるユキ翁を、店主は目を丸くして見つめた。
「私ですか」
床に落ちた薄赤い花弁を指先で拾い上げて、店主は歌うように言う。
「私には余計なものです」
床に目を向けていた店主の顔は、ユキ翁には見えなかった。「余計」という音だけが、さざなみのように店の中に響いていた。
「強いて言えば、この店の主でしょうか」
すっぺりとした白い顔をあげた店主は、細い目を余計に細めながら、暖簾に視線を向けた。
「色即是空、空即是色」と暖簾に白抜きされた八字が、裏返しに透けて見える。
「あの暖簾をくぐれば、ここには何もないのです。私も、あなたも」
花弁を手のひらに乗せて、店主は暖簾の外へ出た。
「こんにちは」
「いい日和ですね」
「よく咲きました」
街行くの人と交わすことばが、店の中にわずかに届く。
またふうわりと通り抜けた風が、店主の手のひらにあった花弁を舞い上がらせた。
「またのご来店を……」
空を漂う花弁は、黄昏迫る雑踏に紛れていった。
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