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般若堂寫眞舘

オリジナル。近代っぽいファンタジー。

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06:人の名前





【人の名前】


「もう、満開ですか」

ユキ翁の肩に乗っている小さな花弁を見つけて、店主が言った。

「すっかり咲いてしまっておったよ」

ゆたかな白髯を撫でつけながら、ユキ翁が答える。
店の奥でセルロイドの少女を抱いていた店主は、彼女を古い籐椅子に預けると、ゆっくり暖簾を割って顔を外に出した。

ゆるやかであたたかな風が、ふうわりと街路を歩いていく。

「桜に会うたことが、あるかな」

今度は、ユキ翁が店主に問うた。

「あいにく」

店主は首を振る。

「あれは少々変わり者じゃで……お前さんとは馬が合うやもしれぬよ」
「桜さまは、なぜ《サクラ》というのでしょう」

ユキ翁のことばに笑いながら、ふと、店主は呟いた。

「いっぺんにたくさん咲きよるからかのう」

ユキ翁は首を捻りながら言う。

「名前とは、面白いものです」
「俺の名はユキじゃそうな」
「雪のように真っ白だから、とのことで」
「ウン、実に気軽なもんじゃろう。あまり気に入っとらんが、何故かしらん、ユキと呼ばれると、俺がことかと思って振り返ってしまうのう」

店主は笑った。

「名前とは、一種の呪いですよ」
「呪いかな」
「ユキという名前からは、逃れられないのでしょう」
「ウン、やっぱり俺はユキじゃな」
「生きとし生けるものを縛る何かがあるとすれば、名前以上にその力をもつものもそうないでしょう」

暖簾をのんびりと浮き上がらせて、風が店の中にやって来た。
ユキ翁の肩に乗っていた花弁が、ひいらり、と床に落ちていく。

「いらっしゃいませ」

店主は微笑む。

「お前さんは、風も写すのかい」
「風は友人です」

のどかな風は、少女の緋羅紗のスカートの襞を優しく撫でて、微かな笑みを含んだ口唇に口付けた。

「風は《カゼ》。桜は《サクラ》」
「そうして、お前さんは」

と問いかけるユキ翁を、店主は目を丸くして見つめた。

「私ですか」

床に落ちた薄赤い花弁を指先で拾い上げて、店主は歌うように言う。

「私には余計なものです」

床に目を向けていた店主の顔は、ユキ翁には見えなかった。「余計」という音だけが、さざなみのように店の中に響いていた。

「強いて言えば、この店の主でしょうか」

すっぺりとした白い顔をあげた店主は、細い目を余計に細めながら、暖簾に視線を向けた。
「色即是空、空即是色」と暖簾に白抜きされた八字が、裏返しに透けて見える。

「あの暖簾をくぐれば、ここには何もないのです。私も、あなたも」

花弁を手のひらに乗せて、店主は暖簾の外へ出た。

「こんにちは」
「いい日和ですね」
「よく咲きました」

街行くの人と交わすことばが、店の中にわずかに届く。
またふうわりと通り抜けた風が、店主の手のひらにあった花弁を舞い上がらせた。

「またのご来店を……」

空を漂う花弁は、黄昏迫る雑踏に紛れていった。




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