【道の分岐】
古い御影石の道標があった。そこかしこが欠けて、時間の経過と丸味を帯びている。
その根元で、青いリボンに金の小さな鈴をつけた猫が、けだるそうにあくびをした。
「あんた、ついに飼い猫になったのかい」
チリン、と鈴を鳴らして、彼は顔をあげた。
彼に声をかけた中年の女は、しゃがんでこの人懐っこい猫の頭をくりくりと撫でる。
「飼っているわけではありませんが」
背後で声がしたので、彼女は振り返った。
すっぺりとした白い顔の男は、少し離れたところから彼女と彼をにこにこして眺めている。
「この鈴、あんたがつけたの?」
「店でイタズラをするので、入ってきたのに気づくようにしたのです」
「ふうん」
彼女は脛を払って立ち上がると、
「あんた、お店やってるの」
訊いた。
「しがない写真館です」
「写真師さんかい」
「ええ」
「ふうん」
彼女は笑いながら、写真師の横を風のように通り抜けていった。
「その猫ね、ユキってんだ。雪みたいに真っ白だろ。小っちゃい子猫のとき、あたしが飼ってたんだ」
彼女は、ふと立ち止まって振り返る。
「でもね、ちょいと訳ありでね、野良になっちまったんだよ」
足元の石を蹴って、彼女は呟いた。
「けど、あんたが面倒見てくれてるんなら安心したよ」
夕焼けを顔中で受けて、彼女は朗らかに笑った。
夕陽がとろけるように、空に滲んでいく。
道標の長い長い影から彼女の足が抜け切ったとき、そこには彼女と入れ違いに、深い静寂が訪れた。
「辻とは、不思議なものです」
写真師はぽつりと呟く。
「分れ道の先がどこに繋がっているのか、あなたは知っていますか」
ユキと呼ばれた猫に近づくと、彼は懐からニボシの袋を取り出して、ぱらぱらと地面に中身を撒いた。
ユキがそれをついばむ。カリカリと乾いた音がした。
「辻に死人を捨てた時代がありました。そこが分れ道だからです」
ニボシに夢中の頭頂部を見つめながら、彼は微笑む。
「あなたは、どちらに帰りますか」
袋をしまって、写真師は立ち上がった。
ユキが顔をあげる。喉元で、チリン、と軽やかな音がした。
「今日は、あの猫来てないんだ」
次の朝、写真師の男が店先に水を打っていると、そこを通りかかった書生が声をかけた。
「彼は天下が寝床ですから」
「俺の家にも、お袋が小さい頃からずっと飼ってた猫がいたんだけどさ、お袋が死んだ途端にどこかへ行っちまったよ。猫ってのはそういうモンなのかな」
書生はそう笑うと、下駄をガラガラ鳴らして行ってしまった。
「……長生きは、するものですか」
写真師は、手桶を下げて店内に戻ると、中で団扇をいじっていた老翁に言った。
「さてね。天下が寝床の俺様にゃあ、辻も住まいもないからの」
雪のような白髯を撫でつけて、老翁はおかしそうに笑った。
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